そう言うことだったのか……

先日読んだ本によると、読みもしない本や、たいして開きもしない写真集や画集などが「積ん読(つんどく)」になっていることがままあるが、あれは全然問題ないとのこと。

実は出版社の研究所で作られた特殊なインクから秘密の電波が脳に直接発信されていて、それにより積んでおくだけでも本は読んだことになり、写真集や画集は鑑賞したことになり勝手に感性は磨かれるそうなので気にしなくても良いそうだ。

なるほどね…… な・る・ほ・どっ!

幼少時からずっとそんな気はしていたのだ。
ひょっとしてそうなんじゃないか?とは思っていたのだ。

今はそうならないように細心の注意を払っている “積みプラ”(作っていないプラモが積まれていくことね)。
あれも、なんだか気持ちが満たされているような気分になる。
レコードも然りだ。
そこにあることに意味がある。
所有しているということに意義があるっつーかなんちゅうか本中華。

一応言っておくが、さすがに特殊なインクで秘密の電波云々ってのは信じてはいないのでご安心を。

そして、数年前に手にした本を “積ん読” の牙城から取り出し読破したときの満足感&達成感。
あれはなかなか得難い高揚感のような気がしている。

かと言って、これを言い訳に “積ん読” の山を作ることはもうしない。
飽くなき好奇心を糧に、私はドシドシジャンジャン読むし観るし創るし聴くことを誓おう。

ただ、罪悪感とうしろメタファーの塊だった、あの山たちのことを少し肯定してくれた気がして嬉しかったのだ。

ケロケロ。

なんじゃそりゃ? なエブリデイ

WBC、盛り上がってますね。
昨今の大谷翔平さんの活躍ぶりを見ていると、もしかしたら僕が生きているうちに彼以上のスーパースターは現れないんじゃないかって思うんです。

先日、観終えた海外ドラマ 『ベター・コール・ソウル”』もそう。
前シリーズである『ブレイキング・バッド』と合わせると全105話+映画1本 をドップリ浸かって制覇したわけですが、今後の余生で このシリーズ以上の感動とカタルシスを与えてくれるドラマを観ることがあるだろうか……多分ないだろうな。
ひょっとしたら映画でも無いかも!
って思うぐらいに、とてつもなく心揺り動かされてしまったんです。
恥ずかしながら。

先日、読み終えた『罪と轍』(奥田英朗著)もそう。
今後、この作品以上に のめり込んで読めるミステリーに出会える気がしないし、これまた読み終えたばかりの某ミュージシャンの自伝がまた素晴らしくて、これからどう生きていくべきかの指針にもなったぜ!
と思えるぐらいのものでだったもんだから、これを超える自伝とも多分出会えなそうだな〜なんて思っているんです。

これが最後かもな……

なんてことをよく感じるようになったのは、五十路に突入した辺りからなんですが、こんなふうに書いているとなんだかちょっとネガティブで後ろ向きなことに思われるかもなんだけど、それが真逆なんです。
それどころかむしろ、とっても前向きなんです。
ファファ〜ンと少し気持ち良いぐらいに。

でも、そう思いつつも「今後さらに塗り替えられることもあるはず!」と期待と希望に満ちていたりもします。

なんじゃそりゃ?

と思われるかもですが、僕はこれで良い、これが良いと思ってます。
大いなる矛盾を抱え、自らに「なんじゃそりゃ?」とツッコミを入れられるってのは良いことなんじゃ無いかと。

そんな説明の出来ない感じがいい。
そういう物事こそ、自分の中で信じられるものなんだってね。
そう思うんです。

なんじゃそりゃ?

BLUE GIANT

映画『BLUE GIANT』を観てきました。

何十回と読んだ原作漫画。
何十回読んでも、死ぬんじゃないか?ってくらい毎度泣かされる大好きな漫画です。

それがアニメ化されるっつーんだから、こんなワクワクすることもありませんよ。

アニメ化や実写化されて、原作が台無しにされることも多々あります。
でも、なんだかその心配はなかったんですよね。
なんでそう思えたのかはわからないんですが。

で、この映画。
期待以上のものでした。
そりゃ、細かいことを挙げたらキリが無いんですけども、そんなことを軽く吹き飛ばす制作者たちの情熱を感じました。
この原作への愛だけではなく、音楽への深い愛も感じたのです。

そんなわけで、物語冒頭からずっと僕の目頭は熱くなりっぱなしでした。
大好きな漫画の大好きな登場人物たちが動き喋り楽器を演奏する。
なかなかこんな最高なこともないと思うのです。

僕はこの奇跡のようなトリオの中で、格別ドラマーの玉田への思い入れがありまして。
ずぶのど素人だった玉田が成長して行く過程に胸がドキドキしまくってしまうのは何故だろう何故かしら。
何か自分と重ね合わさるところがあったんですかね。
全然天才でもなんでもないところが。
そんな凡人が二人の天才に引っ張られて、違う世界を見ることができるようになるっつーところが、僕の胸を熱くさせまくったのです。

ドラムを習っている息子にも観てもらいたいなと思いました。
どうにか上映期間中に、もう一度どこか爆音で上映する映画館で観たいと思っているのです。
家族で観られたら、これまた最高ですな。

さてと、もう一度原作を読み直すとしますかね。

股旅。

屈折の果て

雑誌「BRUTUS」のJAZZ特集。

この雑誌の本特集とか音楽特集をせっせと読んでいるのだが、紹介されている作品のほとんどがまだ読んだことも聴いたこともない、これからも手に取る予感がしないものばかりで、その度に自分の軽薄短小 & 軽佻浮薄さ加減にガックシトホホ状態に突入させられていたのだが、今回は超意外なことに、誌上で紹介されている作品たちを結構な確率で知っているし聴いたことあるアルバムが多かったから不思議だ。
でも、嬉しい。

とは言っても、表紙に「JAZZ IS POP!」とあるわけで、それはつまり聴きやすいポップなアルバムを紹介してるのだから、私の軽佻浮薄ぶりが軽減されたわけではないのは百も承知である。
でも、嬉しい。

GEZAN with Million Wish Collective の『あのち』はここ最近一番聴いているアルバムかも。

和嶋慎治さんの『屈折くん』は最近の愛読書。
猛烈に面白い『罪の轍』(奥田英朗著)を読んでいる合間に強烈に面白く読んでいる。

屈折で思い出した。
最近なんだか、ヘビーでゴリゴリな音楽が人生讃歌に聴こえて、元気&勇気を分けていただいているような気がする。

ノーフューチャー!
とシャウトするパンクロックに未来を感じ、
シニタイヤツハシネと歌われると、それはむしろ「生きろ!」ってメッセージなのではと受け止める。

随分前から、そんな人間だった気もするが、なんだか新鮮な感じなので、多分僕の中で何らかの変化があったような気がしないでもない。

ようは受け止め方次第なわけだが、こんな床屋のオッサンともなると、自分の言動がどう受け止められるのかもちゃんと想像しなくちゃダメだよな〜とも思っている。

股旅。

バカみたいだけれども

左が昨年の六月くらい、40数年ぶりにプラモ熱が再燃し始めた頃に作ったもの(MG 1/100 陸戦型ジム)

右が今さっき完成した全く同じキット。

たかだか八ヶ月だが、ちょっとはまぁ上達したんじゃないか?オレちゃんよ。

この年齢になって、仕事以外で上手になりたいものがあるっつーのは一つの幸福の形だと思うのだ。

もっともっと上手くなりたいな。
そのために必要なのは我慢する心。
待つ心。
その先にあるのが“丁寧”。

それはつまり、仕事にもつながって来るのよね。
そしてさらに生活にもね。

プラモデル?笑

だなんて思われるだろうけども、そこに“生きる真髄”があるような気がするのよ。
バカみたいだけどもさ。