その名もニールヤンガー

我が家に猫の “すなすけ” がやって来て二週間弱。
当たり前のように転がっていた日常風景の片隅に、いつもちらほら猫がフレームインして来るのが何とも新鮮なのである。
ふと気がつくとそこにいる。
日常に彩というか潤いというか和みというか緩さというか、そういうものたちが横たわるようになったようなフィーリング。

 

 

あらためて思う。
猫、いいぜ。

 

 

そうして今。
この日記を Neil Young 先輩の “Harvest” (もちろんレコードで)を流しながら書いているのだが、これまたいいぜ。
外のしとしと雨とやけにフィットしている音感。
いいぜ。

 

 

このアルバムは、1972年に発表されたわけで、つまりそれは私がまだ一歳だった頃なわけだ。
それを四十七歳になって、したり顔で聴いている。
いつの間にやら随分と生意気になったもんだなオレよ。

 

 

そんなことをぼんやり考えていたら、竹原ピストルさんの『石ころみたいにひとりぼっちで、命の底から駆け抜けるんだ』の歌詞の一節

 

 

♪あれが最初で最後のチャンスだったと勝手に決めつけて、ポケットに手を納めてしまってはいないか?
実力が足りないことを棚に上げて、図々しく “スランプ” などと口にしてはいないか?♪

 

 

がゆっくりと脳裏を駆けていった。
若かりし頃は世の中多少図々しくないとやっていけないぜ……などと嘯いていたが、今は違う。
今は謙虚でありたいと思う。
若かりし頃の図々しさは、若気の至りなんつって、心優しい人から見れば微笑ましくもあったりするが、中年以降の図々しさは醜悪だ。

 

 

でも、その若気の至りが、後々になって振り返ってみると輝かしく眩しかったりするから不思議なもんだ。
Neil Young 先輩は、この46年前に自身が発表したアルバムをどう思っているのだろうか。
きっと眩しいのだろうな。
眩しいから、もう聴き返すことはないのだろうか。
眩しいから、もはやもう自分の作品ではないような気すらして、憧憬のまなざしを浮かべながら耳を傾けるのだろうか。
そして、そんな Neil Young 先輩は、まだまだ眩しく輝いているから素晴らしい。

 

 

そんなわけで、私の中で何十回目かの Neil Young ブーム到来である。
そんな自分のことをニールヤンガーと呼んでいるのは、ここだけの秘密だ。

 

 

それではそろそろ股旅をする。

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