わからずやのオッサンにはなりたくないが、物わかりのいいオッサンにもなりたくない。

何やら世の中では
「九月入学ってのはどうよ?」
みたいな寝ぼけた案が出てきているようだが、四十路後半の床屋のオッサンは断固反対なのである。

その理由は多分に情緒的なものだ。日本も明治時代までは九月入学制だったらしいが、そこから積み上げられてきた歴史がある。やはり、卒業や入学は春がいい。入学式の家族写真は桜舞い散る中なのが良い。出会いと別れの季節は春であるべきなのだ。歌でも小説でも映画でも、ずっとそう描かれてきたのだ。メリットとかデメリットだとか海外がどうだとかは知らん。長年日本の民の中でずっとずっと積み重ねられてきたロマンティックを大切にしたいのだ。

だけどもだけどだ。世の流れで、九月入学になったとしたらちゃんと受け入れる。
「今こんなだからしょうがないよね〜」
なんて、ただただ流されるのが嫌だから、こうやって主張しているだけだ。

数年前、魚河岸が豊洲に移るってなったとき「築地」ブランドが無くなる……だなんて嘆かれていたが、その昔「日本橋」から「築地」に移されたときも「築地?なんだか不味そうだな〜」って意見が大半だったらしいと獅子文六先生の本に書いてあった。

そうやって世の中は移ろっているのだ。今の当たり前がずっとの当たり前ではない。そんなことはわかっている。でも、足掻きたいのだ、なんだか流されるのはイヤなのだ。何かの、誰かの言いなりになるのはゴメンこうむりたいのだ。

人はこれを「老害」と揶揄するかもだが、そんなことは知らん。少しは頑固に生きてみたいのだ。頑固のイメージってあまりよくないかもだけど、質の良い「頑固」ってのもきっとあるはずだ。

わからずやのオッサンにはなりたくないが、物わかりのいいオッサンにもなりたくない。こういう気持ちわかるでしょう?

答えはきっと奥の方。心のずっと奥の方だ。涙はそこからやってくる。

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