心で言葉が立つ日に心が宿る

七月末だというのに、この涼しさ。
近々梅雨明けだという噂もあるが、夏が来ても、あっちゅう間に過ぎ去ってしまいますね。
猛暑も嫌だが、ココまで夏を感じられないのは、もっと嫌だ。
なんかこう、ベリー最高にイイ塩梅にはいかないものなんですかね。
ちょうどいい夏って味わったことないかもしんまい。

ところで七月からレジ袋が有料になりましたね。
たかだか数円とはいえバカに出来ないぜとエコバッグを用意したのですが、これがどうにも忘れてきてしまう。
コレもアレですな。
日々心がけて常時携帯を‘クセ’にしないとですな。

そんな私。
相変わらず肝心な一言が言えず、余計な一言ばかり口にしてしまうエブリデイを過ごしております。
なかなかどうして思い描いたように己を成長させることって出来ないものですね。

息子が今読んでいる本にもこう書いてありましたよ。

『思いついたことや、見たり聞いたりしたことを、よく考えずにしゃべりまくるのは、あまり教養のある者のすることではない。
すぐに話さなくちゃならないことならともかく、そうでないなら、よく考えて、話すときを見はからって話すのが、教養のある者のすることだ……』

小学生向けの本にこんな真理が書かれているんですもの。
胸にグサグサグサーッと来まくりましたよ。

息子の名前 “倫太郎” の由来の一つにもなった『天の瞳』(灰谷健次郎著)の主人公 “小瀬倫太郎” くんは、なかなかのやんちゃ小僧なのですが、おじいちゃんの言葉には目に違った光を宿らせて聞き入るんですね。

そんな関係を築きたいんだぜ!ヌフー!

と鼻息荒く、家族との愛しき日々を過ごしているのだけれども、どうにも空回りばかり。
自分の言葉を自分の中に宿らせてみたいものです。

そのおじいちゃんが、小学四年生になった孫の倫太郎くんに語りかける言葉をココに記す。

“記憶という字を頭に思い浮かべて、じいちゃんの話をよう聞け。
記憶の「憶」という字の意味は、心で言葉が立つ日に心が宿る、ということじゃ。

どういうことかというと、話す人の記憶と思いがしっかりしていて、きく心のある相手に、それが届いたとき、はじめてその話に心が宿る、というわけじゃ。

記憶の「記」は「言」という漢字に「己」と書く。
言う己がしっかりしとらん者には、記憶は授からん。

倫太郎。
じいちゃんはな、おまえに心をこめて、これまで、いろいろと話をしてきた。
おまえはじいちゃんの話を、おまえの心の全部で受けとめてくれた。

神さまが、人間に授けてくれた記憶という宝物は、つまらんことを覚えるためにあるわけじゃない。”

心で言葉が立つ日に心が宿るか……

胸に刻もう。

股旅。

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