ねえ外は春だよ

息子の飼っていたヒガシニホントカゲの“イカボンド”が逝ってしまった。

ちょっと弱っているな〜と心配していた、シッポの短い“トガボンド”の方はいつの間にやら元気溌溂になり、元気だったはずの“イカボンド”が天に召される不思議。

これがあれか。
世の無常ってヤツか。

息子は「またトカゲ獲るぜよ!」と息巻いているが、息子よゴメン。
父さんは、なんだかやるせなくて気が乗らないぜ。

歳を重ねると、どうも手前勝手に眼前で起こる事象に意味を持たせたがるようになる。

とここまで書いてふと気付いた。

今自分がこうやって書き綴っていること、それはまさに吉田兼好先輩が言ってたアレなんじゃないかと。

先輩はこう言ったね。

“つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ……”

現代語に変換すると

“することもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、(思わず熱中して)異常なほど、狂ったような気持ちになるものだ……”

って感じか。

そんなに手持ちぶさたでもないし、異常なほど狂ったような気持ちにはなってないけども、まさにこの感じじゃないかなと思った。
そうか。
オレは今、吉田兼好化が進んでいるんだな。
徒然し始めたってことなのか。

正直、書かなくてもイイ。
書かなきゃならないわけじゃない。
でも、書きたいのだ。

こうやって書き綴ることによって、なんか浄化されるっつーか、バランスが取れる感じがするのだ。

十一月に息子が植えたチューリップが咲いた。

いつの間にやら、外は春うららかだ。

優しいから好きなんだ

1000円のエコバッグを買ったとして、元を取るにはレジ袋一枚3円と考えると買い物333回分なのだよ……どう?

と得意げに話している人をテレビで見かけた。
こういう違った角度から物事を見るって、大切なことだろうし、初めて聞いたときはガビーン!マジか!
となるけど、なんだかちょっと寂しくなるのは何故だろう。
なんだか胸に冷たい風がピューと吹き抜けで行くのだ。

いや、それって肝心なのはそこじゃないんじゃない?
そこも大事だけどさ……
と思うのだ。
それを言っちゃおしまいなんじゃ?
ってヤツだ。

こういう気分になったとき、私は妙にパンクロックが聴きたくなるのである。
10代の頃からずっと聴いている反逆の音楽だ。

あの頃は、Don’t Trust Over Thirty!なんつって、ムーンライダーズを爆音で聴いていた。
そんな痛々しいヤングボーイだった私もいつの間にやら図々しくも半世紀を生きようとしている床屋のオッサンになり、今となっては、むしろ Don’t Trust Under Thirty だぜと吠えているのだから人間なんて、やはりラララだ。

見渡せば、自身の容姿も含め、あの頃と圧倒的に変わってしまったことばかりだが、頑なに全然変わらない、変わろうともしないものが芯の部分にあったりもする。
何か寂しい気持ちになったときパンクロックを聴きたくなるのも、あの青春時代の名残りだ。
パンクが脳内で流れた瞬間、私はあの日あの時に一瞬で立ち返れるのだ。

でも歳を重ねてわかったことがある。
それは年齢は関係ないなってこと。
私が寂しくなってしまうようなことをドヤ顔で宣う輩は老若男女問わずいるよなってこと。

まぁだからどうした?
って話なんだが、私はこういう無駄話が大好物なのである。
無駄話をするために生きていると言っても過言ではないくらいに。

パンクロック、優しいから好きです。

それはまだ死んでいない

“サブカルは死んだ。パンクも死んだ……”

その帯に書かれた衝撃的な文言を見て、これは読まなければならないなとゲットしてみました。

その本のタイトルは『オフィシャル・サブカルオヤジ・ハンドブック』
著者である佐藤誠二朗さんは私より二つ歳上で、私がかつて貪るように読み漁っていた雑誌『宝島』『smart』の編集者だっつーんだからアガる。

アガる?何が?

もちろんテンションがです。

あの日あの頃、我々の世代のボンクラたちがどうにも拗らせたまま、来てしまったアレやコレやのことが書いてあるに違いないと勝手に期待しているのです。

サブカルもパンクも死んでないと思い込みながらも、心の奥底では「やっぱり死んじゃった?だよね」なんて思っているのを見透かされたような恥ずかしさと清々しさがあるわけです。

まぁ何しろボンクラだったなと我ながら思うのである。
こういう本が出てくることによって、あのしょうもなかったあの頃が総括されるのでは……とちょっとだけ期待しているのです。

しょうもないボンクラ……自虐的に響いているかも知れないけども、それがなかなか誇り高きものだったりするのよね。

五十路突入前にイイ本に出会えました。
ラッキーだな。

なんか笑われるかもだけど、僕にとってこの五十代になるってのは、とってもデカいことでして。
三十代、四十代になったときと比べものにならないくらいなんですよ。

なんでだろ……

全然答えが出てこないです。
でも、こういうのって答えが出ない方が、本当なんだろうなと思うのです。
でも答えを探す。
答えなんかなくても探す。大事なのは「探すこと」なんですよね。

あ、でもサブカルもパンクも死んでないですよ。
これはホント。

レコードは死なず

今、読んでいる本が猛烈に面白いのです。

『レコードは死なず』(エリック・スピッツネイゲル著)。
そして帯にはこんな文言が。

《若き日パンクに心酔した僕は、大手の雑誌で著名人とのインタビューなどもこなしているが、収入はまるっきり不安定。
毎月綱渡りしながら妻と交代で愛息の面倒をみる日々だ。
何を失くし、どうやってここまできたのかもすでによくわからなくなっている。
僕の常軌を逸した究極のレコード探しがはじまった……》

とあるんだから読まずにはいられないのです。
コレってもしかしてオレのことじゃ?

と思ってしまうのもしょうがない。
これはもう激しい痛みを伴う共感の嵐が待っているに違いないと確信して読み進めているのです。

で、この本を紹介する日記用にと写真を撮ったわけなのだが、今気づきましたた。
これ、やっぱり自分も「LONDON CALLING」を持つべきでしたよね?

最高にカッコイイ大好きなアルバムだし、これを扉絵に持ってくる気持ちがもの凄くわかります。
しかも、装画は よしもとよしとも さんなのです。
全てがナイスチョイス。
もはや共感しかありませんよ。
共感カタルシスだ。
(よしもとさんって、あの『B・B』の作者 石渡治さんの実弟なのよね。激アツ)

だけどもだけど。
私が手に持っているのは Benny Sings ……。
この辺りの詰めの甘さが “タカサキテツヘー” だなと痛み感じるわけです。
私はいつも肝心なところで、しょうもないカッコツケをしやがるのだ。
またやっちまった。
またクールポコだ。

でも、これもまた良いアルバムです。
クリクリパーマの Benny Sings を見て、よしまたオレも髪を伸ばしてカーリーヘアにしようと思いましたし。
昨日、久々に At The Drive In のライブ動画を観て、私のアフロヘア熱が再燃し始めたところでのこのグッドタイミング。
これはもう啓示だな。
よしよし。

レコードは死なず……

その通りだよ。

さてと今日明日は店休日。
全力で積極的に休むとしよう。

春に

息子が大事に飼っている ヒガシニホントカゲ が、何やらそわそわしだしたのを見て、いよいよ春来来だなと思うのである。
昨年の今頃、庭で捕らえたから、もう一年になるのか。
あの狭い水槽でよく冬を越えたものだ。
五、六年は生きるらしいが、さすがにそれまで飼いはしないだろう。
急に「もういいや」って逃すのだろうな。
その日は多分近い、そんな気がする。

昼日中は陽当たりの良い場所に出して、日光浴をさせている。
何やら嬉しそうに見えるのは気のせいか、気のせいだろう。

ヒガシニホントカゲ 二匹と カナヘビ が五匹ほどいたはずなのだが、カナヘビ の姿が見えない。
死んだのではない。
食べられたのではない。
多分、ヤツらは逃げたのだ。

ヒガシニホントカゲ たちには、ちゃんとトカボンドとイカボンドという名前がある。
息子に名前の由来を訊いたが、秘密だそうだ。
愛猫 “スナスケ” の名付け主も息子。
なかなかのネーミングセンスの持ち主だと思う。

話は圧倒的に変わる。

『チボー家の人々』という本がある。
幼少時から、ずっと何度も何度も父親に「読むとイイ」と薦められてきた本だ。
思い返してみると、父に「本を読みなさい」とはしょっちゅう言われていたのだが「これを読め」と作品名を出して薦められたのは、この一冊だけだ。

それから四十年近くが過ぎ、私はいまだにこの本を手にとっていない。
なんだか、読めと言われて素直に読めない自分がいたからだ。
自分でも不思議なくらい、頑なに読むことを拒否し続けて来た。
ホントなんでだろう……

で、今朝いきなり「ちょっと読んでみるか!」と思い立ったんだった。
調べてみたら、全十三巻で、作者であるロジェ・マルタン・デュ・ガールをノーベル文学賞に導いた作品なのだそうだ。
あれだけ父に薦められていたのに、私はその作品の大まかな内容も、作者の名前も知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
別に反抗していたわけではない。
全てが、ただ何となくだ。
急に読もうと思ったのも、ただただ何となくだ。

父は、なぜこの本を私に薦めたのだろう。
父が読んだのは、青春期の頃ぐらいなのかな。
あまり多くを語らない父だったので、いまだに私にとって父はミステリアスな存在。
でも、この本を読めば父が見えてくるかも知れない。
私の親でも何でもなかった頃の、ひとりの青年だった父を、ちょっとだけ知られるかも……なんて妄想爆発させている。

私は息子に何を薦めるだろうか。
このままだといっぱい薦め過ぎるに違いないだろうな。
こんなんだから軽薄なのである。
ちょっとは重厚さとか渋さを身に付けたいと一応願ってはいる。
そのためにはどうすればいいのか……

う〜ん、わからん。

あれから十年経ちました。
何か言葉をと思ってはいるのだが、何も出てこない。

でもまあ、これでいいのだ。