だんだんわかった

近頃なんだか『新聞記者』だとか『万引き家族』だとか、ちょっとヘビーなテーマを扱った映画やドキュメンタリーを続け様に観ていたせいか、その後にラストちょっとを残すのみだった『ステップ』(重松清著)を読むことに躊躇しちゃって「でもまあしょうがないから読むか〜」ってササっと読み終えたのだけれども、やはりなんだか物足りなくて、いやはや失敗だった、やっぱり『軽蔑』(中上健次著)を読み始めれば良かったと後悔したんだったんだった。

この『ステップ』。まあ、面白くないわけじゃなくてドンドン読み進められるのだけれども、なんだか読んでて居心地が悪くて、なんでなのかな〜と思っていたのだが、ちょっとその正体がわかったような気がするのです。

その主人公にどうにも共感できない自分がいたのだ。この小説、妻に先立たれた主人公が残された一人娘を大事に大事に育てるっつーとても良い心温まる話なのですが、その父親としての立ち居振る舞いに関しては共感出来るのだけれども、そのキャラクターのバックボーンが見えないっつーかなんちゅうか本中華。

この主人公が、どんな音楽や映画や本が好きなのかが見えてこない。いや、もちろん文中でそんな説明なんてないことがほとんどなんだけれども、なんとなくそういうの見えるんですよ。あ、あるな……って感じで。

でも、重松清作品に出てくる登場人物ってそういうのが全くないことが多い。だから、あまり手に取らなくなってしまったんでしょうね。わかりやすく読みやすくはあるんですよ。とってもイージーでライト。だから奥行きとか深みがないんです。なんなんでしょうね、これ。全然上手く説明できないんですけども。

なんだかね。好きな小説の好きな登場人物って、自分と好きな音楽とか重なっているような、そんな気がするんです。『万引き家族』のリリー・フランキーさん演じる主人公もね、これは映画ですが、劇中で全然語られやしないのですが、なんだかひょっとしたらパンクとかソウルとかブルーズとか好きそうだな〜って。いや、ジャンルなんてなんでもイイんですよ。

この人はきっと、何かそういうものに寄りかかる人生を過ごしている……って感じられると、その作品に自分は心惹かれるんだな〜ってね。だんだんわかって来たんです。自分的には大発見なんです。

この全てがね、手前勝手な解釈なのですがね。作品へのこういうアプローチ、わかっていただけますでしょうか。中上健次作品とか、そういう匂いがプンプンしてるんですよね。今、自分はそういうものを求めているんだな〜ってね。とっても自覚しているんです。

あ、でも『ステップ』の映画版は、主人公を山田孝之さんが演じているんですよ。もしかしたら、彼の演技力によって、主人公の奥行きを深みが生まれているかもしれないですね。役者の仕事ってそういうことなのかもですね。なんつって。

わかりにくい話でごめんなさい。では股旅。

〈追記〉明日は臨時休業となります。よろしくです。

それが嬉しい

早朝、芝生に水を撒いてたら、何やら蠢く黒光りする物体を発見。オスのカブトムシだった。彼はどこから来てどこへ行こうとしていたのだろうか。少し弱っているようだったので、捕獲して息子が飼っている虫たちの仲間に入れてあげた。これがイイことなのか、そうではないことなのかはわからない。

一昨日、息子と虫捕りに行った。息子がノコギリクワガタのオスを見つけた。かなりの大きさだ。自分で見つけて自分で獲った大物。息子は興奮しまくっていた。

こういうとき。はて……自分はどうだったかな……と思いを巡らす。私が、初めてノコギリクワガタを獲ったとき、私はどう感じたのかな。そのとき一緒にいたのは誰かな。どんな天気で、どんな空気だったかな。グングン記憶が蘇ってくる。肌感、質感までクッキリと浮かび上がる。

小学二年生の息子と過ごしていると、そこに小学二年生だった自分が現れる。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に驚いている。それが嬉しい。

話はガラリと変わる。

お客さんからレコードをいただいた。自分が持っていてもホコリをかぶるばかりだし、テッペーさんに渡せばちゃんと聴いてくれるんじゃないかと思って……と仰るので、ありがたく頂戴した。しかも、ちゃんと私の好みであろうアルバムばかりをナイスチョイスしてくれている。また、これで自分の幅と DOODLIN’ BARBER SHOP の奥行きを広げられそうだ。それが嬉しい。

今、読んでいる『ステップ』(重松清著)。まあ、面白いっちゃ面白いのだが、かつて重松清作品をもう読むのはやめようと思ったときの感覚が蘇って来たのを感じる。どうにもセリフがむず痒いのだ。ささっと読みやすく、ときには涙こぼれるときもあるのだが、あまり心には残らない。これはなんでなんかな。ライトでイージーな感じが嫌いなわけではない。むしろ好きなのにな。なんでだろ。

麦わら帽子は もう消えた

一日から息子の短い夏休みが始まった。こんな状況だから、ドドンと遠出も出来ないしってことでキャンプに行ってきた。

キャンプと行っても、泊まりはトレーラーハウスだし、専用のBBQ用デッキも横についているし、食材も用意してくれるしで、それはもう楽チンなのだ。

出かける準備やら片付けやら洗濯やら、そのほとんどの負担が妻さんにかかるわけで、少しでものんびりしてくれればという思惑からのナイスチョイスなわけだ。

日頃、イージーなものに対して厳しくチャージしがちな自分だが、こういうのはイージーな方がイイぜ。この思いは年を重ねるごとに増している。ベリーイージー、イイぜ。

それでも「これでイイのかな」って思いが片隅にちょびっとはある。七歳の少年には、もっともっとアドベンチャーを味合わせた方がイイのかなって思いがあるのだ。

しかし、そんな思いは杞憂だったりする。キャンプ場に行く前に、ニジマスの釣り堀に行ったのだが、“釣ったサカナは全部買い取りね!”ってルールなので、食べ切れないし持ち帰れないしってことで、たった二匹で終わりにさせたのだが、息子は大満足だったようだ。

大人的には物足りないかなと思うことも、その全てが息子には初体験なわけで、自分でニジマスを釣ったということは息子にとっては震えるほどの大事件なのだ。しかも、それを塩焼きにしてくれて、それがまた格別に美味いわけである。「また行こう!」そう約束した。

少年時代、過ごした時間はことさら濃密だった。それが段々薄れていきながら大人になっていく。多分、息子は私の四倍ぐらい濃密な時間を過ごしているのだろう。小学校のころ、二時間目と三時間目の授業の間に「業間」という休み時間があった。それは、たったの二十分ぐらいだったのだが、いろんな遊びが出来たのを覚えている。

今、二十分の休憩を与えられても、きっと何もしないし何も出来ないだろう。ボーッとしているうちに終わってしまうだろう。四倍の八十分を与えられたら、やっと何かをしようって思いが生まれるな。

早起きして虫捕りに行くことも、息子にとっては大冒険。ちょっとした散歩もスペクタクル。息子が過ごす一日は、私が過ごす四日分ぐらいディープなのだろう。そう考えると、ちょっと気も楽になる。大人が考える「濃密時間」を用意することはないのだ。子どもたちは勝手に物凄い吸収しているのだ。多分。

「夏休み」と云えば、中学時代に文化祭でフォークソングクラブのYくんが熱唱した吉田拓郎の「夏休み」を思い出す。それがもうアンビリーバブルでドリーミンな歌唱で、体育館内がざわついたのを覚えている。あれは事件だった。

今さっき、初めて原曲を聴いたのだが、Yくんのそれとは違った曲だった。でもサビの部分は同じだった。
♪夏や〜す〜み〜♪
Yくんのシャウトが、耳の奥でこだまする。あれからずっと、毎夏盛夏が訪れたのを実感する度にYくんの絶唱が脳内再生される。ある意味、私の中で一番の夏のテーマ曲なのかもしんまい。

さてと。たった二週間ちょっとの息子の夏休み。一緒に楽しく過ごせたらと思う。日課の親子げんかも忘れずに。

にしても、息子よ。カメラを向けると変顔ばかりするが、それも面白いけど、たまにはちゃんと撮らせておくれ。照れくさいのはわかるけど。それもきっと成長なのだろうけど。

心で言葉が立つ日に心が宿る

七月末だというのに、この涼しさ。
近々梅雨明けだという噂もあるが、夏が来ても、あっちゅう間に過ぎ去ってしまいますね。
猛暑も嫌だが、ココまで夏を感じられないのは、もっと嫌だ。
なんかこう、ベリー最高にイイ塩梅にはいかないものなんですかね。
ちょうどいい夏って味わったことないかもしんまい。

ところで七月からレジ袋が有料になりましたね。
たかだか数円とはいえバカに出来ないぜとエコバッグを用意したのですが、これがどうにも忘れてきてしまう。
コレもアレですな。
日々心がけて常時携帯を‘クセ’にしないとですな。

そんな私。
相変わらず肝心な一言が言えず、余計な一言ばかり口にしてしまうエブリデイを過ごしております。
なかなかどうして思い描いたように己を成長させることって出来ないものですね。

息子が今読んでいる本にもこう書いてありましたよ。

『思いついたことや、見たり聞いたりしたことを、よく考えずにしゃべりまくるのは、あまり教養のある者のすることではない。
すぐに話さなくちゃならないことならともかく、そうでないなら、よく考えて、話すときを見はからって話すのが、教養のある者のすることだ……』

小学生向けの本にこんな真理が書かれているんですもの。
胸にグサグサグサーッと来まくりましたよ。

息子の名前 “倫太郎” の由来の一つにもなった『天の瞳』(灰谷健次郎著)の主人公 “小瀬倫太郎” くんは、なかなかのやんちゃ小僧なのですが、おじいちゃんの言葉には目に違った光を宿らせて聞き入るんですね。

そんな関係を築きたいんだぜ!ヌフー!

と鼻息荒く、家族との愛しき日々を過ごしているのだけれども、どうにも空回りばかり。
自分の言葉を自分の中に宿らせてみたいものです。

そのおじいちゃんが、小学四年生になった孫の倫太郎くんに語りかける言葉をココに記す。

“記憶という字を頭に思い浮かべて、じいちゃんの話をよう聞け。
記憶の「憶」という字の意味は、心で言葉が立つ日に心が宿る、ということじゃ。

どういうことかというと、話す人の記憶と思いがしっかりしていて、きく心のある相手に、それが届いたとき、はじめてその話に心が宿る、というわけじゃ。

記憶の「記」は「言」という漢字に「己」と書く。
言う己がしっかりしとらん者には、記憶は授からん。

倫太郎。
じいちゃんはな、おまえに心をこめて、これまで、いろいろと話をしてきた。
おまえはじいちゃんの話を、おまえの心の全部で受けとめてくれた。

神さまが、人間に授けてくれた記憶という宝物は、つまらんことを覚えるためにあるわけじゃない。”

心で言葉が立つ日に心が宿るか……

胸に刻もう。

股旅。

流されるのではなく流れを作れ

今年からカブトムシ&クワガタムシをポーチで飼っている。
店内に昆虫飼育箱を置いている謎の床屋はもう卒業したのだ。

そうしたら朝虫たちにゼリーをあげようと見てみるとカブトムシが飼育箱近くにいたりして、昆虫採集に行かずともゲットできるようになった。
(今朝はカナブンを捕獲)

匂いで寄って来るのかな。
それとも超音波か何か出しているのかな。
ともあれ昆虫スゴいぜ。

さて。
近頃スリップノットに夢中な息子の話である。
どうしても欲しいと言うので、ボーカルのコリィが着用しているマスクをゲットしたのだが、何しろラバーの匂いがキツくて、かぶれたもんじゃないし、キッズサイズではないので、息子が「お父さん似合うよ!」と言い出した。

来年五十歳になる自称ナイスミドルな私にこのマスクをどうしろと言うんだい?

なんて一瞬も思わず、喜んでかぶっている。
しかしなんだね。
こんなマスクをかぶって、あんなパフォーマンスをするスリップノットのメンバーたちのガッツと体力はハンパないですな。
何しろ息苦しいし暑い。

でも、スリップノットのメンバーの大半が私と同年代というね。
デビュー当時は二十代半ば過ぎくらいかな?
だったら、ヤレる気がするが、それを二十年以上継続しているのだから敬服する。
体力はもちろんだが、あのテンションを維持しているのがスゴい。

それにつけても、息子がスリップノットを選んだことが嬉しい。
赤ちゃんの頃からいろんな音楽を聴いて、いや聴かされてきたわけで、その中からコレってのはまさかのチョイスだ。

自分で見つけてきて、自分で好きになったのだ。
これは宝物だよ。
僕はスリップノットは好きだけれども、それは二十年も前の話で、今はもうアルバム一枚も持ってないし、店やクルマで流れたことは一度もない。
息子は自力でたどり着いたのだ。

それが、小洒落た音楽ではなく、プリミティブな衝動に満ちた熱量の塊みたいな音楽だってところにね。
お父さん、グッと来ている。

これからも自分の好きなものを追い続けておくれ。