無敵のマスターピース

近頃の我が家の日々の日課として、息子の就寝前に読み聞かせをしている。妻さんと私と息子と、それから猫の“すなすけ”も一緒にだ。

読み聞かせに何かイイ本は……

と探してて見つけた本があって、それが古今東西の名作百選を五分程度で読めるように要約したもので、息子も飽きることなく、読む方も疲れることなく、スイスイと名作に触れることが出来るっつー優れものなのである。

しかしまあなんだね。名作と云われるものには、そう云われるだけのものがあるね。

幼少時に読んだきりで、ストーリーも設定も記憶が曖昧になってしまっているから「え!こんな話だったっけ!」と驚かされてばかり。『杜子春』とか『ごんぎつね』とか『マッチ売りの少女』とか『小公女』とか、物凄いんだもの。要約されたものなのに目頭熱くなっちゃったりしてね。さすがマスターピース。

信じられないぐらい憎たらしい登場人物とか出てくるし、コレって児童文学としてどうなの?いや、本来コレが普通なんだよね!と妙に納得してしまったりしている。

《宮沢賢治の『注文の多い料理店』も収録されてて、それがとても面白かったから調子に乗って『宮沢賢治 児童文学集』を買ってみたのだが、元祖の『注文の多い料理店』は小学校低学年には到底理解出来ないであろうもので、久々にクールポコ(やっちまったな)しちゃったなと反省。要約ってスゴいなといたく感心》

話は圧倒的に変わる。

先日、営業中にリトル・リチャード(先日逝去、享年87歳)を流していたら、お客さんに『火の玉ロック』って誰が歌ってましたっけ?と訊かれて、「プレスリー?いや、それは『監獄ロック』か、あ!ジェリー・リー・ルイスですよ!」と答えに行きついたんだった。

二人でウンウンとうなずき合ったのだが、それから私の頭に『火の玉ロック』って曲名がこびりついちゃって、

そこから「『火の玉ロック』か……そういえな『火の玉ボーイ』って漫画があったな、あれ好きだったな。作者は石渡治さん。で、代表作はやはり『B・B』。テッペー少年が十代の頃に夢中になった漫画だ。思い返すとそのストーリーはトンデモ破天荒。でも、面白かったな〜今読み返したらどうなんだろ……ってことで、30年ぶりに読んでみようと思う。ワクワクするぜ。

で、ついでに『火の玉ロック』を歌ったジェリー・リー・ルイスについてちょっと調べてみたら、7回結婚してて、その相手の中には13歳の未成年(15歳だぜと嘘ついてたらしい、しかもジェリーこのとき22歳なのに結婚3回目!)がいたりするし、溺死した方もいたり、ジェリーによる虐待死を疑われている方もいるし、子どもは少なくとも六人はいるらしいんだけれども、そのうち二人は亡くなっているしで、コレはもう「ロックンロール!」だなんて到底シャウトできないぐらいの経歴の持ち主だったんだった。

ジェリー・リー・ルイスの人生もまたトンデモ破天荒。現在84歳で存命だ。

軽妙洒脱という生き方

どうもこんにちは。

五月晴れ、そんな言葉があるが、これって本来旧暦の五月なわけで、つまり今の六月、つまり梅雨時にチラッと現れた晴れ間のことを言うらしい。
だから今日の素晴らしい陽気のことは五月晴れとは言わないのかな……と思いきや、別に使ってイイらしい。うむ、柔軟!
そうやって、世の中や文化は時代に即して変化しているっつーわけだ。柔軟、大事!でも、頑なも大事!どっちかに偏るのはあまり好ましくないし素敵じゃない。そんな境地に達しつつある、先日四十九歳になった床屋のおやじさん、それが私である。

こんな陽気にはコレだねと朝から De La Soul を聴いている。我ながら素晴らしくてナイスチョイスだ。容赦なく気分がアガる。

そういえば、近場に “MIYA DE LA SOUL” というラーメン屋があるらしくて、いつか行きたいぜと野望を募らせている。屋号に遊び心ある店ってイイ。自分は、屋号に遊び心を乗せられなかった。そんな気概とユーモアがなかったのだ。なんかこう、どこかでカッコつけてしまっているのだ。

軽妙洒脱、そんな四文字熟語がある。軽やかで、洒落てて、俗っぽくなくて、さわやかで、洗練されて、しかも巧み……そんな意味合いで使われるのだが、まさに私の追い求める理想的な姿、それこそがコレなのだ。まだまだ全然軽妙でもないし、洒脱でもない。軽でも妙でも洒でも脱でもありゃしない。つまり、一つも引っかかっていない!

でもね。いつか手を伸ばせば届くんじゃない?まさか?ってぐらいにはなりたい。

そんなテンションで始まった定休日。ステイホーム?与えられた状況&条件でどれだけ楽しめるか。それは己の歩んできた道、培ってきた教養次第なんだぜと誰かが言っていたよ。

軽妙洒脱に楽しもう!

変わったのは自分だった

ここ数年、夕焼けがやけに眩しくなったなと感じてて、うむ、これはきっと大気がどうかなっているんだな……

と地球規模の環境危機を憂いていたのだが、他の誰かに話してみても「ん?」という反応しか得られない。

なぜだ?もしや宇宙人がオレの知らぬ間にオレの身体で人体実験を?まさかオレの身体のどこかにチャクラが生じるのでは?

とワクワクしていたのだが、ある機関の調査により、どうやらこれは自分の老眼の影響らしいと判明したんだった。アッチョンブリケ。

周囲が変わったと思っていたら、実は自分自身が変わっていた……

こういうことは、これ以外のことでもよくあるよなと感じる。

そうだ、これはあれだ。これはまさしく茨木のり子さんの詩「自分の感受性くらい」で書かれていることだなと思った。

ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにはするなみずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを友人のせいにはするなしなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを近親のせいにはするななにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを暮らしのせいにはするなそもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を時代のせいにはするなわずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい自分で守ればかものよ

これだな……

夕焼けが眩しいのを環境破壊のせいにするななにもかもみずからの老いのせい

これだよ……

そんなわけで先日四十九歳になった。そしたら次兄から『復刻版 ザ・ブルーハーツ写真集』を戴いた。欲しかったから嬉しい。自分から自分への贈り物としては『使ってはいけない言葉』(忌野清志郎著)を進呈。『吉里吉里人』(井上ひさし著)は、甲本ヒロト先輩とタモリさんがテレビで「面白いよね〜」と言っていたので、この二人がそう言うならと鼻息荒くゲットしたのだが、ずっと読めずにいたので、ここいらでガッツリ読もうと企んでいる。『邂逅の森』(熊谷達也著)は、敬愛するデザイナーさんが勧めていたので手にとった。

ネットをブラブラしていると「今読んでいる本、これから読もうとしている本」を紹介している人を多く見かけてて、なんでかな〜ああそうだ、みんな自粛で自宅待機を強いられているから、本を読む機会が増えているんだろうな〜って気がついた。なるほどである。

股旅。

STAY HOME STAY YOUNG

どうもこんにちは。

私事で大変至極恐縮ではありますが、本日景気良く四十九歳にならせていただきました。こんな御時世だからこそ誕生日とか大切にしたいなと思います。

しかしまあ、こんな私ごときが四十九歳ってそれってどうなのよ?来年五十歳?冗談だろ、コンニャロ!って気分満載のまま、一年一度の誕生日を迎えられた幸福を噛み締めております。

ともあれ感謝。この一言に尽きます。おっと、その前にもう一言。ともあれコロナ、ふざけんな。

こんなとき、どんなものと一緒に写真を撮ろうかしらん……ルルルラララと数秒思案してパッと出てきたのが、このアルバムでした。

『YOUNG AND PRETTY』

まさに今の気分、今の時世、今の流れ、今の「これからこうなってくれたら良いな〜」って思いが結晶されたようなタイトルであり、アルバムだなとビビーンと来まくったのでした。

三十数年前、高校生の頃からずっと愛聴し続けているアルバム。それをこうやって一年一度の誕生日に取り上げる。五十路手前になって、何を青臭いことをと揶揄されるかもですが、もう良いんです。そういうの、もう良いんです。いい意味で厚顔無恥になって来ているんです。だから、もうそういうの気にしないんです。好きなものは好きと言える気持ち、抱きしめていたいなと。

ヤングでプリティーでありたいなと。あ、これ心持ちの問題ですよ。若作りしちゃうぜってことじゃないです。可愛いオッサンになりたいわけではないですよ。

STAY HOME しながも STAY YOUNG でありたいなと。ついでに可愛らしくありたいなと。

そうそう。近頃よく感じる感覚があるんです。それは「いつも神様が見ている」って感覚です。宗教的にどうのこうのじゃなくて、日々の行いを誰かが見ていてくれているってことです。

いいことも悪いことも全部引っくるめて、その善悪を判断するとかそういうレベルではなく、ただ見てくれている。そんな感覚です。その「まなざし」を「神様」とたまたま呼ばせていただいているだけなんです。全然分かりにくくてどうもすみません。

回りにあふれる愛があることを感じます。ありがとうございます。

DOODLIN’ BARBER SHOP 店主 高崎哲平 拝

わからずやのオッサンにはなりたくないが、物わかりのいいオッサンにもなりたくない。

何やら世の中では
「九月入学ってのはどうよ?」
みたいな寝ぼけた案が出てきているようだが、四十路後半の床屋のオッサンは断固反対なのである。

その理由は多分に情緒的なものだ。日本も明治時代までは九月入学制だったらしいが、そこから積み上げられてきた歴史がある。やはり、卒業や入学は春がいい。入学式の家族写真は桜舞い散る中なのが良い。出会いと別れの季節は春であるべきなのだ。歌でも小説でも映画でも、ずっとそう描かれてきたのだ。メリットとかデメリットだとか海外がどうだとかは知らん。長年日本の民の中でずっとずっと積み重ねられてきたロマンティックを大切にしたいのだ。

だけどもだけどだ。世の流れで、九月入学になったとしたらちゃんと受け入れる。
「今こんなだからしょうがないよね〜」
なんて、ただただ流されるのが嫌だから、こうやって主張しているだけだ。

数年前、魚河岸が豊洲に移るってなったとき「築地」ブランドが無くなる……だなんて嘆かれていたが、その昔「日本橋」から「築地」に移されたときも「築地?なんだか不味そうだな〜」って意見が大半だったらしいと獅子文六先生の本に書いてあった。

そうやって世の中は移ろっているのだ。今の当たり前がずっとの当たり前ではない。そんなことはわかっている。でも、足掻きたいのだ、なんだか流されるのはイヤなのだ。何かの、誰かの言いなりになるのはゴメンこうむりたいのだ。

人はこれを「老害」と揶揄するかもだが、そんなことは知らん。少しは頑固に生きてみたいのだ。頑固のイメージってあまりよくないかもだけど、質の良い「頑固」ってのもきっとあるはずだ。

わからずやのオッサンにはなりたくないが、物わかりのいいオッサンにもなりたくない。こういう気持ちわかるでしょう?

答えはきっと奥の方。心のずっと奥の方だ。涙はそこからやってくる。