選曲の先に見えた何か

とあるお客さんが来月頭に開院するとのことで、光栄にもその待合室で流す音楽を選曲してくれないかと頼まれまして。

患者さんはもちろん、スタッフも気持ち良く働けるような、そんな音楽でお願いしますとのことで、只今鋭意選曲中なわけでして。

尺的には、74分のCD-R、4枚ぐらいで考えでまして。
イメージもムンムン膨らませているところなんです。

そしたらですね。
昨日、その依頼者である某ドクターの方がカットしに来てくれたのですが、彼の胸にバイーンと抱かれているものに私は仰天したわけです。

こ、これは……

なんとそれは、Marshall の Bluetooth スピーカーで、それをなんと今回選曲することに対するギャランドゥーとして受け取ってくださいなんてさりげなく言うもんだから、床屋のおじさん狂喜乱舞しちゃいました。
だってこれ、ものすごく欲しかったんですもの。

当店で流す音楽なんですが、レコードでなら無問題。
でも、PCからの音を有線接続した外部スピーカーで流しているそれには大いに不満足だったわけです。
そこで目をつけていたのが、まさにコレだったわけです。
いや〜嬉しい!
ありがとうございます! 

で、先ほど接続を完了し、早速音を出してみたのですが、震えましたね。
記念すべき一曲目は、GOODLUCKHEIWA の“アユタヤ” をナイスチョイスしましたよ。
いや〜最高!

ココではないどこかで流す音楽を選曲し、それに対しての対価をいただけるなんて音楽バカ冥利につきます。
一応まだ情報解禁してないみたいなんで、どこのなんて医院なのかは明かせませんが、開院&情報解禁した後、もし行くことがありましたら、待合室でそっと流れる音楽に耳を傾けていただけたら本望であります。

とても良い機会を与えていただきました。
選曲の先に「誰かをリラックスさせる」ためにすべき何かが見えた気がしました。
自分の仕事にも反映させてみたいです。
ありがとうございました!

だからこそ読む

ふと思いついて『はだしのゲン』を再読することにした。
小学校の学級文庫棚にあったのを読んだ以来だから、四十年ぶりくらいになるのか。

当時、それはもう猛烈な衝撃を受けたのを覚えているし、原爆だとか戦争だとかに対する私の基本的な考え方、向き合い方に影響を与えたのかもな〜とページをめくりながら逡巡した。

全十巻で、今七巻の途中まで読み進めたのだが、正直、気が滅入ってきた。
それは残酷な描写だけではなく、戦争そのものと原爆を落としたアメリカだけでなく、日本人に対する怒りがそこに徹底的に描かれているからかもしんまい。

まぁホントしょうもない日本人が次々と出てくる。
腹立たしくてしょうがない。
心底ムカつかされる。
で、なんでその人達がヒトデナシになったか。
その原因は戦争と、敗戦から生じた貧困のせいだという作者のメッセージが叩きつけられているのだ。

私の記憶は七巻の途中以降からは途切れている。
きっと、この辺りで「もういいやー」とヤングテッペーは投げ出したのだろう。
でも、今の私は、来年五十路に突入する私は、ちょいと、いやかなりキツいが、踏ん張って最後まで読むぜ。

噂では後半は、かなり偏った作者の考えが描写されているらしい。
それが原因で図書館 & 図書室から『はだしのゲン』が消えたらしいとも聞いている。
ううむ……面倒くさそうだ。

だけどもだけど!
だから読む。
だからこそ、読まねばと思っている。
四十年ぶりに読む『はだしのゲン』よ。
私の心の奥底に爪痕を刻み込んでおくれ。

「好き」を追いかけて

このところ毎日毎日、息子が怪獣描きに熱中している。
学校でも、休み時間に描いているらしく、息子の作品が毎日生まれる喜びっつーのもあるんだなぁとしみじみ。

その中の一つに王冠が描かれているのがあったので「バスキアって人が描いた恐竜にも王冠があるんだよ」と息子に見せてみた。

「へ〜」と見つめる息子。
他の作品もペラペラと見せた。
「好き?」
と訊いたら、コクリと頷き、まだ途中だった怪獣を描き始めた。

余計なお世話かもしれないが、こういう関与はしていきたい。
押し付けがましくない程度に、あくまでさりげなくやれたらなと思う。

影響を受けるかどうかは本人次第。
見ないより見る方がいい。
聴かないより聴く方がいい。
触れないより触れる方がいい。

にしてもバスキア良いな。
勧められて読み始めた『ブルーピリオド』って漫画が、藝大を目指す高校生を描いた話で、劇中に藝大に受かった方々の作品などが掲載されているんだけど、なんだか私には難解で、それよりバスキアの作品の方が胸に迫るっつーか、結局「好き」なのだ。
この「好き」だけで充分よね。

このマンガの中でも、自分の『好き』がわかることが大切……みたいなことが、説かれてて、ホントそうだよなぁと嘆息した。
「好き」であれば、それでいい。
そう言い切れたら、迷いも失せるのよね。

息子には、とことん「好き」を追いかけてもらいたいもんだ。
ちょいちょいと干渉&関与しちゃうかもだけど大目に見てね。

股旅。

よし、教えてもらおう

今日もちゃんと朝から縄跳んだ。元旦からだから、ジャスト三週間続いていることになる。我ながら結構本気のようだ。

従来の縄跳びとは比べ物にならない太さと重さを誇るムエタイロープを勧めてくれた後輩が「先輩こういう感じで跳ぶんですぜ」的な動画を幾つも送ってくれて、コレがとても参考になる。目からウロコが落ちまくるとはこのことか。まさにこのことである。

まずはグリップの仕方。教えてくれたやり方を試したら、楽チン楽チン。ビュンビュンとリズミカルに速く回せる。

それとステップ。私が憧れていたボクサー的スタタンスタタンなあの感じだ。動画を観てて「いや〜これオレ無理なんじゃね?」と思っていたのだが、実際真似して跳んでみたら、結構案外わりかし出来たから嬉しかった。

それはもう側から見たら、醜くカッコ悪くみっともない姿なんだろうけども、これもはじめの一歩だ。初めから上手にできるヤツなんていないんだぜ。ボブ・マーレーも歌ってたよ。
♪お前が出会った巨人もかつては赤ん坊だった♪ってね。

そう言い聞かせて、ジタバタ今日も明日も跳ぶよ。こうなってくると「あれ?縄跳びを始めた当初の目的ってなんだっけ?」って気持ちになるから面白い。

人に教えを乞うということは恥ずかしいことではない。かつては、照れ臭さもあって「教えて」と素直に言えない自分がいたが、それって長いスパンで見たらちょっと損しているかもしれないなとついこの間ふと思ったんだった。

うちの息子もあまり教えてもらおうとしない。自分でどうにかしようとする。教えようとすると「向こう行ってて」「うるさいな〜」と私を遠ざける。これは私が鬱陶しいからってだけではないはずだと信じたい。

自分でどうにか……というガッツも必要だ。でも、時には教えを乞うことが出来るっつー柔軟さというか、勇気というか、そういうのもあるとイイよね!って話だ。

継続は力なり

年が明けて半月、私はまだ縄跳びを続けている。
一日千回跳んでいる。
二百回を五セットだ。

初めはキツかったが、今年で四十路ラストイヤーになる私でも徐々に慣れて来るもので、スイスイこなせるし、なんだか体力もついて来たような気もするし、微弱な筋肉痛も「生きているぜオレ!」と実感させてくれて心地良い。
よし、このまま続けるぜ!

と意気揚々となっているところで、タテオカ後輩が「先輩、縄跳びするならコレですぜ!私は何年もコレ!何人もコレで綺麗に痩せてます!」と熱烈に薦めてくれたWINDYのムエタイロープが届いた。

私が使用していたasicsのトビナワと比較するのがバカバカしくなるくらいの太さと重さ。
マジですか、タテオカ後輩。
(でも、ムエタイロープの方がずっと安価なのよね)

で、昨日からそのムエタイロープを使い始めたのだが、これがキツい。
全く別物な運動になるんじゃないかな。
二百回スイスイ跳べてたのが、やっと終えるとゼーハーゼーハー。
重いから手首への負荷も段違いになるし、今までとは違った箇所の筋肉痛にも襲われるし、ヤバいねコレ。
運動している感が尋常じゃない。

多分今のやり方では、自分を甘やかしてまくっているだろうから、今度タテオカ後輩に御指導してもらおう。
それで春までに基礎体力を向上させ、基礎代謝も上げてやるんだぜ。
これも出来るだけ長く健康で元気に仕事を続けるためなんだぜ。
ルルルラララ。