どうか遠慮なく招かれて戴きたい

今月五日の開店十四周年記念にと妻さんから戴いた魔除猫(by 横尾忠則先生)と昨日深大寺で購入した招き猫をさりげなく店内に飾ってみました。

 

招き猫の右手が招くのが金。
左手が招くのが客なのだそう。

 

どちらも是非ともご遠慮なく招かれて戴きたい。

 

 

十四周年だからと言って、殊更何もどうもしていないのですが、これまたさりげなく新タオルを仕入れてみました。
今のところ、お客さんの誰一人も気がついていないがネイビーのがそれです。
(いつの間にやら、観葉植物の “ソング・オブ・ジャマイカ” がなくなっていることに気づいたドゥードゥリンマニアのお客さんは数名おりました。ありがとうございます!)

 

 

何周年とかって、オレこんなに頑張ったよ、だから褒めて!
などと言う邪な気持ちが全くないと言えば嘘になりますが、その根本は支えてくださった皆々様への感謝の気持ちなのです。
この想いは、やはり年を重ねるごとに広く深く大きくなっています。
それはもう気持ちいいぐらいに。

 

 

そうしたら、旧友が本日発売のザ・クロマニヨンズのニューアルバム『レインボーサンダー』のアナログ盤を周年祝いにと贈ってくれました。
ツボ突きまくってくれるもんです。
ありがたし。

 

 

今ちょうど、聴きながらこの日記を認めているのですが、実にイイ感じ。
この声、このビート、このメロディ。
今まで三十年聴いて来たのですから、これから三十年も楽勝で聴いていそうです。

流れ星か 路傍の石か

本日、2018年10月5日。
めでたくも DOODLIN’ BARBER SHOP は開店十四周年を迎えることができました。
これもひとえに皆様の温かいご支援、ご愛顧の賜物と心より感謝申し上げます。
ルルルラララ。

 

 

屋号に「BARBER SHOP」と入れるのは、自分の店を出すと決意したときから決めてました。
入れる理由にたいそうなものはなくて、ただただ “なんとなく” でした。
“なんとなく” 、そんな気分だったのです。

 

 

でも、その “なんとなく” な気分に従って正解だったな今思います。
弱ってたり焦ってたりすると、そんな “なんとなく” な気分をないがしろにしてしまいがちではありますが、今後は極力減らして行きたいです。
そして、このまま “なんとなく” 余生を渡っていけたらなぁと薄ぼんやり願っております。
そのためにすべきこと、それはきちんと自覚して。

 

 

妻さんから、さりげなく十四周年祝いをいただきました。
いつもありがとう。
手作りの「Doodlin’」刺繍入り巾着と横尾忠則先生のポストカードと魔除け猫ストラップ。
ポストカードはビートルズの四人を描いたものと床屋のサインポールが描かれた夕暮れの景色のものの二枚。
横尾忠則先生が世界で評価されていることに激しく頷かざらずにいられない色使いと世界観です。

 

 

そしてBGMは、もちろんザ・ハイロウズの『十四才』をナイスチョイス。
もちろん7inch のアナログ盤であることは言うまでもありません。

 

 

♪あの日の僕のレコードプレーヤーは
少しだけいばって こう言ったんだ
いつでもどんな時でも スイッチを入れろよ
そん時は必ずおまえ 十四才にしてやるぜ♪

 

 

自分自身の「十四才」が振り返ればとても重要な年だったように、この自分の店の「十四才」もきっとそういう年になることでしょう。

 

 

ともあれ感謝。
周りに溢れる愛に感謝。

 

 

どうもありがとうございます。

 

 

DOODLIN’ BARBER SHOP 店主 高崎哲平 拝

いつも聴こえてくるのは あのメロディー

もう随分前の話になるが、父が数十年も前の家族写真を出してきて
「この頃が一番幸せだったのかもな……みんな若くて元気で……行きたいところに行こうと思えば行けたし、やりたいこともやろうと思えばやれたんだよなぁ……」
とちょっぴり寂しそうに微笑みながら見ていたことを時折思い出すのである。

 

 

その父が見ていた写真に写っていた私は幼稚園児ぐらい。
つまり、私の息子の今現在の年齢と同じほどなのだ。
(兄たちは中学生と高校生。母は三十代半ば父は四十代前半ってところか)
そのせいか、父のそんな思いと今の自分がの眼差しとがシンクロするのである。
子猫と遊ぶ息子、それを見つめる妻さん。
そんな家族の風景。
数十年経ったら、輝かしい一時だったなと思い返すのだろうか。
そんな一瞬を脳裏に刻み込んでおこう。
だなんて手前勝手なセンチメンタル満載の日々を過ごしている。
まあ、自分もいつの間にやら年を重ねたなって話である。

 

 

話は変わるようで繋がっている話。
近頃、ラジオ体操や柔軟体操が効いている。
若かりし頃は、こんなのやる意味あるの?などと痛い勘違いをしていたが、四十路半ばも過ぎた今。
これが効く。
全ての動きがガタピシになってしまったマイボディをガッシガシほぐしてくれる。
ピョンピョン飛び跳ねるだけだぜと軽く見ていた跳躍や、腕を前から上に上げて大きく背伸びの運動もバッキバキと音を鳴らす。
まあ、これも自分もいつの間にやら年を重ねたよねって話である。

 

 

年を重ねたなぁというか、オッサンになったよなぁと実感したことをもう一つ。

 

 

真心ブラザーズの新曲『メロディー』がやけに響くし沁みるのである。
これはもう、いつか行われるであろう私の葬式で是非とも流してもらいたいと思うぐらいに。
メロディーも歌詞も入って来てしょうがないのだ。
♪やりたいことなんか そんなに見つからなくて
やるべきことと 退屈で 時間は過ぎる

それでも楽しく生きる覚悟を 矜持を
大丈夫 安心して みんな本当は退屈してるから

退屈を怖がるな 退屈と共に在れ
それでもなるべく 聴きたい音楽を 読みたい本を
身を置きたい気持ちイイ場所を求めて

ほら いつも聴こえてくるのは
あのメロディー
誰の声だか知らないが 幼子のように従ってしまう
そして 心の奥から確かな力を感じるんだ……♪

 

 

この歌と出会えて幸福だ。
感謝したい。

 

 

私にも、いつも聴こえてくるメロディーがある。
そして私も、そのメロディーが聴こえてくるとヘソと心の奥から確かに力を感じるのだ。
ずっと確かにあったそういう思いや感じ方を歌にするって凄いね。
YO – KING 、あんた凄いよ。

 

 

股旅。

私の礎を成すもの

今朝。
ふと自分のルーツと言うかベースになっているものは何なのだろうかと考えてみた。

 

すると。
かつて、少年だった頃とかはただただ好きだっただけなのに、それが今は確かに僕自身を構成する細胞の一部になっていることに気づいた。

 

 

考え方、受け止め方、生き方、選び方、逃げ方、思い方、果ては歩き方、走り方までも、影響を受けていると言うレベルを超えて僕自身の中に入って来ているのだなと感じたんだった。

 

 

幼少時より、兄弟がいつも聴いていたので染み込んでいるRCサクセションの忌野清志郎先輩と中学時代に衝撃の出会いをした THE BLUE HEARTS の甲本ヒロト先輩。
とりわけこの二人には多大な影響を受けた。
それは最早細胞レベルまでも深く浸透していると思う。
それと意外かも知れないが、真心ブラザーズの倉持陽一先輩もかなり入っている。

 

 

こんなことを言うのは、今までずっと恥ずかしかったのだけれども、何だか吹っ切れている自分がいる。
四十代に入ったあたりから、少しずつ吹っ切れが始まった。
吹っ切れが無事終了したら、次は突き抜けだ。
突き抜けの先はまだ知らないので、還暦に差し掛かる辺りまでには知ることが出来たらなと思う。

 

 

文筆家で挙げると、リリー・フランキーさん、みうらじゅんさん、大槻ケンヂさん、中島らもさん、大竹伸朗さんには散々お世話になった。
先輩たちの文章には、生き方のヒントが書かれていた。
何度も言うが「答え」ではない。
あくまでヒント。
いろいろと勝手に教わりました。
勝手に受け止め、勝手に解釈し、勝手に咀嚼し、勝手に吐き出して生きてきました。
これが二十代前半からですかね。

 

 

寺山修司さん、岡本太郎さんとかも読み漁りましたが、影響を受けたなどとはとても言えない。
何でなんですかね。
誰が上で誰が下とかって話ではないんですよ。

 

 

宮本輝さんの本も読み漁りました。
そのほとんどを読んだんじゃないかな。
そうそう。
来月末、宮本輝さんのライフワークとなった『流転の海』の最終章となる第九部がいよいよ発売されるのですよ。
第一部が発売から三十四年で、ようやく完結するわけです。

 

 

僕が第一部を初めて手に取ったのは浪人時代か学生時代なので『流転の海』ともかれこれ二十数年の付き合いになる。
終わってしまうことに一抹の寂しさはあるが、ずっと読み続けてよかった。
この二十数年、失速することは一度もなく、ユルもことなく、ずっとずっと面白かった、この作品。
この小説も確実に僕の中に溶け込んでいることだろう。

 

 

アニメでは、これはもう間違いなく『機動戦士ガンダム』です。
漫画では、絞るのが難しいですが、パッと思い浮かぶのは『火の鳥』(手塚治虫著)、『カムイ伝』(白土三平著)、『風呂上がりの夜空に』(小林じんこ著)ですかね。

 

 

映画、洋楽、お笑い、ドラマなどもあるのですが、それはまた次の機会に。

 

 

ルーツではなく、ベース。
このニュアンスの違いがとても重要。

 

 

股旅。

ふとした思いを綴った日記

以前読んだ無人島に漂着した人々を描いた実話をベースにした本の話です。
 
 
それぞれ、それなりのプロフェッショナルで、各人協力して困難を乗り切ってどうにか生還しようと奮闘するわけです。
 
 
その中で、風流を愛し音楽を奏でるのが得意な男がいましてね。
漂着当初、その音はみんなを和ませ不安を和らげ、希望にもなるのですが、徐々に食糧が尽きてきて、体力を奪われ始めると誰も音楽を求めることすら出来なくなっていきます。
 
 
それでもどうにか生き抜こうと皆が耐えているとき、音楽を奏でていた男は崖から身を投げてしまうのです。
楽器だけを残して。
 
 
これを読んで私はショックを受けましてね。
所詮、芸術なんてものはそんなものなのかと。
極限のサバイバルな状況においては、真っ先に脱落してしまうのだなと。
風流を愛する心なんてのは邪魔になるのだなと。
 
 
でも、私は思い直しましたよ。
だからこそ、芸術は大切なんだぜと思えて来ましたよ。
人間らしくあるために必要なものなんだぜってね。
 
 
ちなみに床屋はどうかといいますとね。
 
 
物語の終盤、これでどうにか生還出来るってなったとき、みんな髪を髭を整え始めるんですね。
 
 
それまでは外見なんてどうでもいい状態だったわけです。
それどころじゃないわけです。
 
 
生きる、生活するって思えたとき、人は外見を整えるのですね。
 
 
漂着したメンバーの中に床屋はいなかったので、それぞれ整え合うわけなのですが、ここで床屋がいたらもっとクールな姿で生還出来たはずなんです。
何せ十数年ぶりの帰還ですからね。
ビシッと決めたいじゃないですか。
 
 
もし自分が漂流したら先に死ねないですね。
最後の最後に、仲間をかっこよくするっつー重大な役目がありますから。
 
 
まあ、何が言いたいかっつーと、みんな髪を整えに行こうぜってことです。
髪を整えたいって思い、それはとても人間らしい、人間ならではの思いなのですよ。