これこそがベリー最高にちょうど良い塩梅

高田渡さんの『汽車が田舎を渡るそのとき』を店で流していたら、「どなたですか?とても良い声の方ですね」と十五年来のお付き合いであるお客さんが言いました。

 

 

これはですね……

 

 

なんつって得意げに、聞かれている物事の十倍ぐらいの情報をベラベラしゃべくる私。
これも床屋の良い光景じゃないかと思うようにしています。

 

 

ここで、そういうのってどうなのよ?
と考え出してしまうと果てしない思考の奈落の底に落ちてしまうので、あまり考えずに、良いじゃないそれでと収めるようにしています。
これが私が四十七年かけて身につけた圧倒的個人的かつ独りよがりな処世術です。

 

これでも、一応ご来店してくださったお客さんに合わせて店内BGMを選曲しているのです。
ときに的外れなこともありますが、それもまた狙ってたりもしてます。
若かりし頃は、無難な選曲をしがちでしたね。
でも、かといって今は攻めているわけではなく、なんだろな。
ともかく「さりげなく」に徹しています。
さりげなく、これが大事。

 

 

これ見よがしなのは醜悪。
気を使いすぎになってしまうのもみっともない。
ベリー最高にちょうど良い塩梅ってのをジャストミート出来るようになるのに、それなりに時間はかかりました。
だから、今回のようにお客さんから何かしらの反応があると嬉しいですね。
それきっかけで、お客さんの世界も広がるような、そんな気がしたりもしてね。
おこがましくも、そんなことを考えながら悶々と選曲しているのです。

 

 

先日納品された DOODLIN’ BARBER SHOP 移転三周年記念ステッカーとバッジ。
各3色ずつ用意したものをご来店してくださった方々に押し付けがましく貰っていただいているのですが、この色ばかりと偏ることなく、おしなべて満遍なく減っていっていると感じます。

 

 

これって不思議。
Tシャツなんかを作っても、圧倒的に偏るってあまりないんですよね。
まあ、そうならないようにちょっと工夫している部分もありますが、それでも不思議。
何しろ不思議。

その名もニールヤンガー

我が家に猫の “すなすけ” がやって来て二週間弱。
当たり前のように転がっていた日常風景の片隅に、いつもちらほら猫がフレームインして来るのが何とも新鮮なのである。
ふと気がつくとそこにいる。
日常に彩というか潤いというか和みというか緩さというか、そういうものたちが横たわるようになったようなフィーリング。

 

 

あらためて思う。
猫、いいぜ。

 

 

そうして今。
この日記を Neil Young 先輩の “Harvest” (もちろんレコードで)を流しながら書いているのだが、これまたいいぜ。
外のしとしと雨とやけにフィットしている音感。
いいぜ。

 

 

このアルバムは、1972年に発表されたわけで、つまりそれは私がまだ一歳だった頃なわけだ。
それを四十七歳になって、したり顔で聴いている。
いつの間にやら随分と生意気になったもんだなオレよ。

 

 

そんなことをぼんやり考えていたら、竹原ピストルさんの『石ころみたいにひとりぼっちで、命の底から駆け抜けるんだ』の歌詞の一節

 

 

♪あれが最初で最後のチャンスだったと勝手に決めつけて、ポケットに手を納めてしまってはいないか?
実力が足りないことを棚に上げて、図々しく “スランプ” などと口にしてはいないか?♪

 

 

がゆっくりと脳裏を駆けていった。
若かりし頃は世の中多少図々しくないとやっていけないぜ……などと嘯いていたが、今は違う。
今は謙虚でありたいと思う。
若かりし頃の図々しさは、若気の至りなんつって、心優しい人から見れば微笑ましくもあったりするが、中年以降の図々しさは醜悪だ。

 

 

でも、その若気の至りが、後々になって振り返ってみると輝かしく眩しかったりするから不思議なもんだ。
Neil Young 先輩は、この46年前に自身が発表したアルバムをどう思っているのだろうか。
きっと眩しいのだろうな。
眩しいから、もう聴き返すことはないのだろうか。
眩しいから、もはやもう自分の作品ではないような気すらして、憧憬のまなざしを浮かべながら耳を傾けるのだろうか。
そして、そんな Neil Young 先輩は、まだまだ眩しく輝いているから素晴らしい。

 

 

そんなわけで、私の中で何十回目かの Neil Young ブーム到来である。
そんな自分のことをニールヤンガーと呼んでいるのは、ここだけの秘密だ。

 

 

それではそろそろ股旅をする。

私に出来る数少ないことの中の一つ

先日。
懇意にさせていただいている “手打うどん 長谷沼” の店主ハセドンと飲んだ際に「店で流すナイスな音楽はないかなぁ……」と光栄なる相談を受けたので、それだったらこれだね!と鼻息荒く素敵なアルバム十枚を選んでみたのです。
坂本龍一さんが、お気に入りのレストランのためにプレイリストを作ったって話と図々しく重ね合わせちゃったりなんかしちゃったりして。
ルルルラララ。

 

 

これが我ながらナイスチョイス出来たと自負しているのですが、世間一般のうどん屋に合うかどうかってのは、それはそれぞれの感性に委ねられるのでなんともいかんしがたいわけですが、あくまで『ハセドンのうどん屋』なわけで、したがってそのイメージで選ぶのは当然の助動詞 “べし” なわけです。

 

 

でも、“手打うどん 長谷沼” の所在地 川越 に向かう道すがら、ちょっと大きめの音でカーステレオで流してチェックしてみたら、いやこれは違うなって思えるものが一枚紛れ込んでいたので、それは華麗にバック。
うどんが美味くなる素敵なアルバム九枚を、長谷沼に進呈させていただいたってわけです。

 

 

“手打うどん 長谷沼” にお寄りの際、なんだかイイ塩梅の音楽が流れていたら「おや?これはひょっとして所沢三ヶ島の床屋のおやじさんが選んだ曲かしらん……」と一瞬思って戴けたら、これ幸いであります。

 

 

そうそう。
話は変わるのですが、六月で移転して三年経ったっつーことで、じゃあ作りましょうかと思い立ったオリジナルステッカーとバッジがようやく納品されました。(各三色ずつです)
これまたなかなかイイ塩梅の仕上がりですので、ぜひとももらってやってください。
ケチ臭く、そんなに数を作らなかったので、ステッカーとバッジそれぞれ一つずつ選んで戴けたら、これまた幸いなのであります。

 

 

それではそろそろ、芝生の手入れでもしましょうかね。

 

 

 

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股旅。

猫、いいぜ。

我が家に猫が来て五日が経った。
名前は “すなすけ” 。
息子の命名だ。
愛嬌ある良い名だと思う。
何しろ響きがいい。
そして似合っている。

 

 

僕は猫を飼うのは初めて。
中島らもさんが何かの本に書いていた「猫は神聖な生き物だから……」の意味がいまいち理解出来なかったのだが、それが今はちょっとだけわかるような気がする。
崇高な……というと大げさかも知れないが、気品があって賢く、気高い生き物だなぁと、すなすけがやって来てから嘆息させられることが目白押しなのである。

 

 

猫、いいぜ。

 

 

四十七歳にして、しみじみ実感している次第である。
お世話全般を引き受けてくれている妻にも感謝多謝。

 

 

それではマタタビ。

我が家に猫がやってきた

本日、我が家に猫がやってきた。
名前はまだない。

 

 

どんな名前にしようかと妻はいろいろ思案しているようだが、まだこれだという決め手はないようだ。
聞けば米国にルーツがある種のようなので、洋名が相応しい気がするが、僕としては猫は和名の方がなんだかちと抜けてて愛嬌がある気もする。

 

 

これから十数年のお付き合いになるとすると、僕が還暦を迎える頃にもいらっしゃるわけで、そうなると下に見てしまうような名前より、ちと尊敬の念を抱いてしまうような、そんな威厳すら感じさせるような名前もいいのではないかなぁとぼんやり思う。

 

 

連れて帰ったのはいいものの、やはり寂しさと警戒感でビクビクしているのがヒシヒシ伝わってくる。
猫がやってきて嬉しくて仕方ない息子に「シーッ!」と静かにするよう促すのはなかなか酷だ。

 

 

息子が猫を飼いたいとねだり出したのは、夏前ぐらいからだったか。
それがあれよあれよと言う間に、本当に飼うことになったのだから人生は面白い。
いろいろと素敵な偶然が重なった上での産物なのだろう。

 

 

一人家族が増えた。
そんな感じだ。
一匹ではなく、一人だ。
愛玩動物にそんな感情を抱くのは初めてだ。
それは多分きっと僕が家主だからなのだろう。
猫を迎えることによって、図らずも家主としての大いなる自覚が芽生えるのだから、これまた人生は面白い。

 

 

一人の猫がたくさんの素敵な物語を我が家に届けてくれることだろう。
楽しみだ。
そして、自分自身でも驚いているのだが、猛烈に可愛い。
現時点で、全然なついてやしないのに可愛いのだ。
これには参った。

 

 

それではマタタビ。