生活とは

今朝、父の髪を切りに実家へ行ってきた。毎度思うのだが、老いた父の身だしなみを整えてあげられるってのはイイもんだなと。


私が好きな小説『漂流』(吉村昭著)で、過酷な漂流生活の果てにやっと生還出来るとなったとき、皆で髪を整え合う場面があったが、髪を切り身だしなみを整えるという行為は生活の中での最低限の「礼儀」だなと思うのである。


父が「オレはもう髪なんてどうなってもイイ。そんなの誰も見ないし、気にしないし、適当でイイんだ!」となってしまったら、それはもう人と人とが向き合い生き合う生活を放棄したことになるのではないかと。


そうならないように私は父の髪を切るのである。放っておいたら伸び放題にしかねないのでね。父にはまだまだ「生活」を棄てないで欲しいからだ。


なんてことを思いつつカットし終えると、これもまたいつものことなのだが父の写真を撮る。


「良い遺影を撮っておかないとね!」


と言ったら、父はクシャクシャの顔で笑った。大丈夫、まだジョークは通じる。ユーモアを無くすこともまた「生活」を放棄することになると思うのである。だから、私は父に会うたび、しょうもない冗談で少しでも笑えるようにしている。


「不謹慎だ!」


ともしかしたら賢い貴方が怒り出すかも知れないようなことも言っている。でもイイじゃん。

父が笑っているなら、イイじゃんイイじゃん。

『遺影』は “YEAH!” だ。


KIRINJI のニューアルバムが良い。自分の周囲を取り囲む「生活」を自分が意図するようなものに変えてくれるような魔力のあるアルバムだと思う。


今更ながら『さらば雑司ヶ谷』(樋口毅宏 著)を読んでいる。著者は私と同いどし。池袋周辺のあの頃のあの空気感を共有しているなと感じる箇所が多数。それを嫉妬と嫌悪が入混じった感情を抱きつつ読み進めている。これは途中で投げ出してはいけないなと自分に言い聞かせて読んでいる。面白くないことはない。

では股旅。

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