その「遊び」に用がある

雑誌の『BRUTUS』や『POPEYE』が、本や音楽の特集号だったらもれなく読むようにはしている。

その毎度毎度、読んだことない本、聴いたことのない音ばかりがたくさん掲載されているのを見るのが、なんだか痛快なのである。

それと同時に、知ってはいるけど読んでない、聴いてないレベルではなく、その存在すらも知らなかった作品たちがズラリと載っているのを眺めて、自分の見識の狭量さを痛感するのも、また楽しかったりするから面白い。

で、その見たこともないし聴いたこともない作品の中から、自分の気まぐれや思いつきで、一つか二つ手に取る。で、これが大体「当たり」であることが多くて、その自分の勘の良さに「オレやるな〜」と酔っぱらうのだ。これがまた楽しい。

若い頃は、知らないことに恥ずかしさや焦りを感じたりもしたが、今となっては、あれのほとんどを知っている人がいたら、それちょっと「怖い人」だよ!と思えるようになった。

全部知らなくてもいい。狭くて深く、そこをひたすら「掘る」。それがいいんじゃない!と思えるように、いつの間にかなっていたんだった。めでたしめでたしである。

で、私は今 “VIDEOTAPEMUSIC” というアーティストにほとほと夢中なのだが、そのアルバムのアナログ盤のほとんどが現在は入手が難しい状況になってて、こうなると知るのが遅かった自分がホント憎い。
「何ボーッとしてたんだっ!」
と人知れず己に喝を入れている。

先日もお客さんに「テッペーさん、きっと好きだと思いますよ」と “Wool & The Pants” という和製ファンクバンドを教えてもらい、聴いてみたらドンズバ私のツボに入りまくりだったのだが、アナログ盤はどこも完全完売。己のアンテナの低さを呪ったのである。

痛快に感じたり、痛感したり、自分に酔っ払ったり、自分を憎んだり、呪ったりといろいろとアンバランスに忙しいエブリデイではあるが、なんかこう、こういうフラフラとしている感じでいいんじゃないかと思っている。

クルマのハンドルでいう「遊び」みたいな?そういうの大切だよな〜と感じることが多くなった。かといって、適当でいいってことではなく。

股旅。

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