意味は後から付いてくる

年末年始とあまり歩けず、心と体がズンドコしていたのだが、息子の三学期開始とともに再び歩き始めた。
一日一万歩、これを週五日を目標にせっせと励んでいるのだが、こうなるともうちょっとした修行なのでは?

と思ってたら、どうやら「歩行禅」というものがあるらしいとテレビが言ってて、ほほ〜イイね、その響き。
そうか、これを歩行禅というのか……ふむふむとなった。
なんだか大そうなことをやっている気がして来るじゃないかね。

で、今日も息子が登校した後、オレ的絶景ポイントである某丘まで歩いた。
片道二十分ぐらいか。
行って帰ってくると、七千歩くらいになる。
すれ違う人は、ほぼゼロ。
到着しても、誰もいない。
三百六十度見回しても、誰もいない。
真っ青な空の下、独りを満喫出来る最高の場所なのだ。

これが不思議なもので、さあこの状況を堪能するぞと構えてしまうと、ザザーンと心に波が押し寄せる瞬間は全然来ない。
何気ない瞬間、何にも望まず、何も意識してないときに、不意にふぁふぁ〜んと例のアレが押し寄せてくるのだ。
コレがたまらなく気持ちイイ。
多分この時、きっと私の脳内には例のアレが満ち満ちているんじゃないかなと思うのだ。

で「やっぱ歩行禅最高だぜ!」と心のガソリン満タン良い感じになって帰ってから、どれどれと歩行禅を検索してみた。
するとそこには『往路では「ごめんなさい!」と唱え続け、復路では「ありがとう!」と唱え続けるべし!』なんて書いてあって、私のそれは全くもって「歩行禅」とは駆け離れた俗世にまみれたものだったのだと悟ったんだった。

でも、コレでいい。
コレぐらいが自分にはちょうどイイのだ。
自分が「禅」的な何かをちょっと感じられたんだったら、それで良いはずだ。
「こうじゃなきゃいけない!」だなんて、お釈迦様は小さなことは言わないだろう。
『ブッダ』(手塚治虫著)を読破したから、それぐらいはわかるぜ。

そういうわけで、これからも ただただ歩こう。
意味はない。
たいていの場合、意味は後から付いてくる。
あと乗せサクサクで充分なのだ。

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